フロベール作『サラムボー』
(承前)『丸い地球のどこかの曲がり角で』収録の「イポール」には、モーパッサンの師であるフローベールの話も出てくる。これがなんとも情けない書かれ方で、主人公は『サラムボー』という長編のことを前作の『ボヴァリー夫人』と比べて、「人間味のあるロボットを描いた作家が、カッコー時計に興味を移したかのよう」だと考えている。
このようにほんの数行触れられているだけなので、翻訳中にはフローベールの作品には手を出さずにいた。ところが、その後、鹿島茂さんが『悪女入門-ファム・ファタル恋愛論-』という本の中で、サラムボーに触れておられるのに出くわした。いわく「処女ファム・ファタルと野獣の物語」。
処女ファム・ファタルって? そう思いながら読んでみたら、この長編、おもしろかった!
紀元前3世紀のカルタゴを舞台に、反乱を起こした傭兵隊の隊長マトーが、カルタゴ軍将軍の娘で巫女でもあるサラムボーにひと目ぼれし、その思いに引きずられて時に迷走しながら、カルタゴ軍との一進一退の戦闘をくりひろげる物語だ。最終的にはカルタゴ軍が勝利し、マトーは捕らえられて惨殺される。彼が民衆や議員の下僕や神官たちになぶられ、切り刻まれながらサラムボーに向かって歩きつづけ、断末魔の中で彼女と見つめ合う最期が壮絶だ。
たしかに『サラムボー』には、現代の主婦にも通じるようなエマ・ボヴァリーの心理を追った『ボヴァリー夫人』の繊細さはないが、その代わりに、とても原始的な、大ぶりな魅力があると思った。そういう意味では、「イポール」の主人公による比較も、好き嫌いは別として、案外、的外れではないのかもしれない。
フローベールはこの作品を書くために、膨大な量の資料を集めたという。ただし、この時代のカルタゴに関してその土地の人が書いた文献はほとんど残っておらず、フローベールはほかの時代、ほかの土地の様々な資料を援用して、物語世界を組み立てている。カルタゴの跡地を自ら旅して、その地の自然の感触をつかみ、人々の習俗に触れたのちに、かなり自由に資料を組み合わせているのだ。この創作の仕方は、主に考古学者から大々的な批判を浴びたらしいが。
じつは「イポール」の著者ローレン・グロフにもそういうところがあって、古典や過去の文学作品の引用の仕方は自由奔放だ。
9月に刊行されたグロフの長編小説Matrixは、英仏文学史上最初の女性詩人と言われるマリー・ド・フランスが主人公のモデル。この詩人の生涯に関しては資料がほとんどないのに対して、彼女があこがれるアントワーヌ・ダキテーヌ(英仏両国の王妃となった女傑)に関してはたくさんの逸話が残っている。そんなふたりの登場人物の虚実をまじえた絡みも読みどころのひとつだ。
「イポール」中の二作品の比較は、いま考えると「人間味のあるロボットを作ってみせた科学者が一転してカッコー時計に興味を移したかのよう」と訳した方がよかったかもしれない。翻訳時間に限りがあるとはいえ、やはり言及されている作品には当たっておくべきだったと反省している。
ともあれ、遅ればせながら、フローベールの作品に触れるきっかけを作ってくれた鹿島茂さんの著作に感謝! フローベールの作品は鹿島さんの『明日は舞踏会』やバルザック作『役人の生理学』(鹿島さん訳。こちらにはモーパッサンの作品も収録)でも取り上げられている。後者は「役人」というもっとも無味乾燥に思われる人種をテーマとしながら、おもしろい読み物になっているところがすごい。
なお、サラムボーに関しては、私は岩波文庫の『サラムボー 上・下』を読んだが、鹿島茂さんは筑摩書房の『フローベール全集2』から引用され、さらに「サランボー」と表記されている。
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