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2021年11月 1日 (月)

フロベール作『サラムボー』

Photo_20211025231801 Photo_20211025232101(承前)『丸い地球のどこかの曲がり角で』収録の「イポール」には、モーパッサンの師であるフローベールの話も出てくる。これがなんとも情けない書かれ方で、主人公は『サラムボー』という長編のことを前作の『ボヴァリー夫人』と比べて、「人間味のあるロボットを描いた作家が、カッコー時計に興味を移したかのよう」だと考えている。
このようにほんの数行触れられているだけなので、翻訳中にはフローベールの作品には手を出さずにいた。ところが、その後、鹿島茂さんが『悪女入門-ファム・ファタル恋愛論-』という本の中で、サラムボーに触れておられるのに出くわした。いわく「処女ファム・ファタルと野獣の物語」。
処女ファム・ファタルって? そう思いながら読んでみたら、この長編、おもしろかった!
紀元前3世紀のカルタゴを舞台に、反乱を起こした傭兵隊の隊長マトーが、カルタゴ軍将軍の娘で巫女でもあるサラムボーにひと目ぼれし、その思いに引きずられて時に迷走しながら、カルタゴ軍との一進一退の戦闘をくりひろげる物語だ。最終的にはカルタゴ軍が勝利し、マトーは捕らえられて惨殺される。彼が民衆や議員の下僕や神官たちになぶられ、切り刻まれながらサラムボーに向かって歩きつづけ、断末魔の中で彼女と見つめ合う最期が壮絶だ。
たしかに『サラムボー』には、現代の主婦にも通じるようなエマ・ボヴァリーの心理を追った『ボヴァリー夫人』の繊細さはないが、その代わりに、とても原始的な、大ぶりな魅力があると思った。そういう意味では、「イポール」の主人公による比較も、好き嫌いは別として、案外、的外れではないのかもしれない。
フローベールはこの作品を書くために、膨大な量の資料を集めたという。ただし、この時代のカルタゴに関してその土地の人が書いた文献はほとんど残っておらず、フローベールはほかの時代、ほかの土地の様々な資料を援用して、物語世界を組み立てている。カルタゴの跡地を自ら旅して、その地の自然の感触をつかみ、人々の習俗に触れたのちに、かなり自由に資料を組み合わせているのだ。この創作の仕方は、主に考古学者から大々的な批判を浴びたらしいが。
じつは「イポール」の著者ローレン・グロフにもそういうところがあって、古典や過去の文学作品の引用の仕方は自由奔放だ。
9月に刊行されたグロフの長編小説Matrixは、英仏文学史上最初の女性詩人と言われるマリー・ド・フランスが主人公のモデル。この詩人の生涯に関しては資料がほとんどないのに対して、彼女があこがれるアントワーヌ・ダキテーヌ(英仏両国の王妃となった女傑)に関してはたくさんの逸話が残っている。そんなふたりの登場人物の虚実をまじえた絡みも読みどころのひとつだ。
「イポール」中の二作品の比較は、いま考えると「人間味のあるロボットを作ってみせた科学者が一転してカッコー時計に興味を移したかのよう」と訳した方がよかったかもしれない。翻訳時間に限りがあるとはいえ、やはり言及されている作品には当たっておくべきだったと反省している。
ともあれ、遅ればせながら、フローベールの作品に触れるきっかけを作ってくれた鹿島茂さんの著作に感謝! フローベールの作品は鹿島さんの『明日は舞踏会』やバルザック作『役人の生理学』(鹿島さん訳。こちらにはモーパッサンの作品も収録)でも取り上げられている。後者は「役人」というもっとも無味乾燥に思われる人種をテーマとしながら、おもしろい読み物になっているところがすごい。
なお、サラムボーに関しては、私は岩波文庫の『サラムボー 上』を読んだが、鹿島茂さんは筑摩書房の『フローベール全集2』から引用され、さらに「サランボー」と表記されている。





 

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モーパッサンの短篇

Florida11の短篇からなるローレン・グロフ作『丸い地球のどこかの曲がり角で』の最後を飾るのは「イポール」。筆者によく似たアメリカ人の女性作家がフランスに渡ってモーパッサンの足跡をたどる話だ。主人公は彼の作品に強い思い入れを持っているが、人間性は疑い、あまり芳しくないエピソードまで紹介している。モーパッサンが役所勤めをしていたころに悪友とつるんで同僚をいじめたという話で、私も訳しながらその部分にはかなり引いてしまった。だが、主人公はそれでもモーパッサンの初期のころの作品は大好きだという。その気持ちを知りたくて、初期の短篇を中心に、いくつか読んでみた。
すると、これが無類のおもしろさ。翻訳を放り出して読みふけりたくなったほどだ。モーパッサンは300作にのぼる短篇を書いていて、私が手にした春陽堂書店の『モーパッサン全集3巻』(短篇は第2巻第3巻)にはそのほとんどが収録されている。この全集は1965年~66年に出版されたもので絶版だが、図書館などでは置いているところもあるようなので、モーパッサンの短篇を本格的に読んだことがないという方はぜひ読んでみていただきたい。かく言う私も、恥ずかしながら「ジュールおじさん」と「脂肪の塊」くらいしか読んでいなかった。
もう少しコンパクトなものでは、同じ訳者による新潮文庫『 モーパッサン短編集全3巻』がある。ほかに、3つのテーマで20篇の作品を集めたちくま文庫の『モーパッサン短篇集』(これもよかったが絶版らしい)や、岩波文庫の『モーパッサン短篇選』、光文社古典新訳文庫の『モーパッサン傑作選』全3冊も。
ちなみに、『丸い地球のどこかの曲がり角で』の著者のローレン・グロフは、フランス留学中に読んで以来、モーパッサンの作品を愛し、「脂肪の塊」の翻案作品まで書いている。”Delicate Edible Birds”という短篇で、これは彼女の第一短篇集の表題作でもある。
じつはグロフは2017年に、モーパッサンをテーマにした長篇を出す予定だったらしい。原稿も仕上がっていたが、最後の最後になって、いま刊行すべき作品ではないと考えて断念したという。ちょうどトランプ政権が発足したころのことだ。そう思って、左上の短篇初出年表中の最後近くにある「スネーク・ストーリーズ」と「イポール」を読むと、そういうことだったのか、と腑に落ちる箇所が多々あって興味深い。
著者はこの二作品および「犬はウルフッ! と鳴く」を書くうちに、2011年から18年の間にThe New Yorkerを中心に発表してきた短編をフロリダというキーワードでまとめて、短篇集に仕上げたらどうかと考えはじめたという。
ちなみに「イポール」は、長篇刊行を断念した直後にイギリスのGranta誌(139 : Best of Young American Novelists)に発表されたのが初出だが、短篇集収録にあたって、ほかの作品とは比べものにならないほどたくさんの加筆が行なわれている。その多くがモーパッサンに関するものだ。

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