文芸翻訳に対する考え方が変わったかも
『丸い地球のどこかの曲がり角で』は短篇集だが、このところ長篇ばかり訳してきたこともあって、翻訳にあたっては戸惑うことが多かった。
まず、物語の結末がはっきり書かれておらず、どう終わったと考えるか読者の判断にゆだねられていることが悩みの種だった。どうせなら盛り上げて終わらせたいと思ったり、もっとわかりやすくしたいという気持ちから、ついつい加筆してしまった部分を、推敲で削るのに、どれだけエネルギーを使ったことか。
また、この短篇集には、著者によく似た女性が主人公というエッセイ風の作品も多かったが、本のことしか考えていない主人公を優しく見守る夫という設定が、あまりにも著者の家族を思わせて、気恥ずかしかったのもある(私が恥ずかしがる必要はまったくないのだが-笑い-)。著者は、大学時代に未来の夫君に電撃的に出会ったことを何度も語っていて、それを知っていながら作品を引き締めるのはっこうたいへんだった。
だが、本が出て、みなさんの感想を読むと、色々心配したことが杞憂だったことがわかってほっとしている。
エッセイ風の作品の主人公に共感なさる読者も、いちばん訳しにくかった最後の作品を「おもしろい紀行記のように読める」と言ってくださる読者も、意外に多かった。
よけいな加筆を歯をくいしばって削除し、読者ができるだけ自由に解釈できるような訳にしようと心がけたことで、文芸翻訳に対する考え方も変わったように思う。
いままでは、翻訳を音楽になぞらえて、原作者は元になる譜面を書く作曲家のようなもの、翻訳家はそれを人前で演奏する奏者や歌手のようなものだと思っていた。つまり翻訳家はよく言われるような「黒子」などではなく、音楽や舞台の世界でのソリストのようなものと思っていたのだ。
だが、今回この短篇集を訳してみて思った。翻訳者は原作者と読者の間をつなぐ橋渡し役に過ぎないのではないか、そういう意味ではかぎりなく黒子に近いのではないか、と。
いやあ、文芸翻訳の世界はどこまで行っても極めることなどできないくらい、奥が深い。
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