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光野多惠子のプロフィール
最近の翻訳書『丸い地球のどこかの曲がり角で』簡単な紹介はこちら
これまでに翻訳した本の一覧
恩師、中田耕治先生の追悼文を書いた。先生の公式サイト中の「追悼文庫」に収められている。翻訳者として活躍中の多くの仲間たちの文章も載っているので、のぞいてみていただけたらうれしい。 この追悼文を書きながら、私は常盤新平さんの短篇集『片隅の人たち』をしきりに思い出していた。この自伝的短篇集には、実在した翻訳家や編集者をモデルにした人物がおおぜい出てくる。そのなかで「村山さん」という翻訳家は中田先生がモデル、というか、中田先生そのものだ。
とくに、村山さんが主人公に褒め言葉とも皮肉ともとれる言葉をかけるあたり。主人公はこういうときはいつも皮肉ととることにしているものの、もしかしたら案外本気で言われたのかもしれないとも思っている。そして、そのあとの場面では、村山さんの師としての愛情をしみじみと感じるのだ。このあたりが、もうまさに中田先生!
先生はそういう褒め言葉をよく弟子たちにかけられた。いま思うと、あの大げさすぎて皮肉としか思えない褒め言葉は、弟子ひとりひとりにあふれんばかりの愛情を持っていらした先生の、江戸っ子らしい照れのあらわれだったのかもしれない。
常盤さんはほんとうは、真っ先に中田先生のことを語っていただきたい作家・翻訳家だったが、10年近く前に亡くなってしまわれた。それでも、こうして本を開けば、昔から変わらぬ中田先生のお姿がよみがえってくる。しかも小説の世界の中で。ちょっと不思議。そして、なんと贅沢なことか。
(承前)『丸い地球のどこかの曲がり角で』収録の「イポール」には、モーパッサンの師であるフローベールの話も出てくる。これがなんとも情けない書かれ方で、主人公は『サラムボー』という長編のことを前作の『ボヴァリー夫人』と比べて、「人間味のあるロボットを描いた作家が、カッコー時計に興味を移したかのよう」だと考えている。
このようにほんの数行触れられているだけなので、翻訳中にはフローベールの作品には手を出さずにいた。ところが、その後、鹿島茂さんが『悪女入門-ファム・ファタル恋愛論-』という本の中で、サラムボーに触れておられるのに出くわした。いわく「処女ファム・ファタルと野獣の物語」。
処女ファム・ファタルって? そう思いながら読んでみたら、この長編、おもしろかった!
紀元前3世紀のカルタゴを舞台に、反乱を起こした傭兵隊の隊長マトーが、カルタゴ軍将軍の娘で巫女でもあるサラムボーにひと目ぼれし、その思いに引きずられて時に迷走しながら、カルタゴ軍との一進一退の戦闘をくりひろげる物語だ。最終的にはカルタゴ軍が勝利し、マトーは捕らえられて惨殺される。彼が民衆や議員の下僕や神官たちになぶられ、切り刻まれながらサラムボーに向かって歩きつづけ、断末魔の中で彼女と見つめ合う最期が壮絶だ。
たしかに『サラムボー』には、現代の主婦にも通じるようなエマ・ボヴァリーの心理を追った『ボヴァリー夫人』の繊細さはないが、その代わりに、とても原始的な、大ぶりな魅力があると思った。そういう意味では、「イポール」の主人公による比較も、好き嫌いは別として、案外、的外れではないのかもしれない。
フローベールはこの作品を書くために、膨大な量の資料を集めたという。ただし、この時代のカルタゴに関してその土地の人が書いた文献はほとんど残っておらず、フローベールはほかの時代、ほかの土地の様々な資料を援用して、物語世界を組み立てている。カルタゴの跡地を自ら旅して、その地の自然の感触をつかみ、人々の習俗に触れたのちに、かなり自由に資料を組み合わせているのだ。この創作の仕方は、主に考古学者から大々的な批判を浴びたらしいが。
じつは「イポール」の著者ローレン・グロフにもそういうところがあって、古典や過去の文学作品の引用の仕方は自由奔放だ。
9月に刊行されたグロフの長編小説Matrixは、英仏文学史上最初の女性詩人と言われるマリー・ド・フランスが主人公のモデル。この詩人の生涯に関しては資料がほとんどないのに対して、彼女があこがれるアントワーヌ・ダキテーヌ(英仏両国の王妃となった女傑)に関してはたくさんの逸話が残っている。そんなふたりの登場人物の虚実をまじえた絡みも読みどころのひとつだ。
「イポール」中の二作品の比較は、いま考えると「人間味のあるロボットを作ってみせた科学者が一転してカッコー時計に興味を移したかのよう」と訳した方がよかったかもしれない。翻訳時間に限りがあるとはいえ、やはり言及されている作品には当たっておくべきだったと反省している。
ともあれ、遅ればせながら、フローベールの作品に触れるきっかけを作ってくれた鹿島茂さんの著作に感謝! フローベールの作品は鹿島さんの『明日は舞踏会』やバルザック作『役人の生理学』(鹿島さん訳。こちらにはモーパッサンの作品も収録)でも取り上げられている。後者は「役人」というもっとも無味乾燥に思われる人種をテーマとしながら、おもしろい読み物になっているところがすごい。
なお、サラムボーに関しては、私は岩波文庫の『サラムボー 上・下』を読んだが、鹿島茂さんは筑摩書房の『フローベール全集2』から引用され、さらに「サランボー」と表記されている。
11の短篇からなるローレン・グロフ作『丸い地球のどこかの曲がり角で』の最後を飾るのは「イポール」。筆者によく似たアメリカ人の女性作家がフランスに渡ってモーパッサンの足跡をたどる話だ。主人公は彼の作品に強い思い入れを持っているが、人間性は疑い、あまり芳しくないエピソードまで紹介している。モーパッサンが役所勤めをしていたころに悪友とつるんで同僚をいじめたという話で、私も訳しながらその部分にはかなり引いてしまった。だが、主人公はそれでもモーパッサンの初期のころの作品は大好きだという。その気持ちを知りたくて、初期の短篇を中心に、いくつか読んでみた。
すると、これが無類のおもしろさ。翻訳を放り出して読みふけりたくなったほどだ。モーパッサンは300作にのぼる短篇を書いていて、私が手にした春陽堂書店の『モーパッサン全集3巻』(短篇は第2巻と第3巻)にはそのほとんどが収録されている。この全集は1965年~66年に出版されたもので絶版だが、図書館などでは置いているところもあるようなので、モーパッサンの短篇を本格的に読んだことがないという方はぜひ読んでみていただきたい。かく言う私も、恥ずかしながら「ジュールおじさん」と「脂肪の塊」くらいしか読んでいなかった。
もう少しコンパクトなものでは、同じ訳者による新潮文庫『 モーパッサン短編集全3巻』がある。ほかに、3つのテーマで20篇の作品を集めたちくま文庫の『モーパッサン短篇集』(これもよかったが絶版らしい)や、岩波文庫の『モーパッサン短篇選』、光文社古典新訳文庫の『モーパッサン傑作選』全3冊も。
ちなみに、『丸い地球のどこかの曲がり角で』の著者のローレン・グロフは、フランス留学中に読んで以来、モーパッサンの作品を愛し、「脂肪の塊」の翻案作品まで書いている。”Delicate Edible Birds”という短篇で、これは彼女の第一短篇集の表題作でもある。
じつはグロフは2017年に、モーパッサンをテーマにした長篇を出す予定だったらしい。原稿も仕上がっていたが、最後の最後になって、いま刊行すべき作品ではないと考えて断念したという。ちょうどトランプ政権が発足したころのことだ。そう思って、左上の短篇初出年表中の最後近くにある「スネーク・ストーリーズ」と「イポール」を読むと、そういうことだったのか、と腑に落ちる箇所が多々あって興味深い。
著者はこの二作品および「犬はウルフッ! と鳴く」を書くうちに、2011年から18年の間にThe New Yorkerを中心に発表してきた短編をフロリダというキーワードでまとめて、短篇集に仕上げたらどうかと考えはじめたという。
ちなみに「イポール」は、長篇刊行を断念した直後にイギリスのGranta誌(139 : Best of Young American Novelists)に発表されたのが初出だが、短篇集収録にあたって、ほかの作品とは比べものにならないほどたくさんの加筆が行なわれている。その多くがモーパッサンに関するものだ。
ローレン・グロフの本は、短編集の訳書『丸い地球のどこかの曲がり角で』が今年の2月に出たばかりだが、アメリカでは早くも次の作品が刊行され、話題を呼んでいる。
新作の題名は『Matrix』。中世のヨーロッパを舞台に、女たちの連帯を描き、立場を超えて惹かれあう女たちを描いた、シスターフッドの書だ。
主人公のモデルは、12世紀にイングランドで活躍した謎の女性詩人、マリー・ド・フランス。名前が示すとおりフランス生まれで、英仏文学史上最初の女性詩人として知られ、その作品はいまでも読み継がれている。だが、生涯に関しては、ヘンリー2世の宮廷にゆかりのあった女性ということ以外は、諸説あってよくわかっていない。
Matrixは、このマリーに、波乱万丈の人生を送ったヘンリー2世の妃アリエノール・ダキテーヌが絡んでくる物語だ。
本書は9月にアメリカで、ついでイギリスで発売され、全米図書賞のショートリストに挙げられたほか、多くの書評が書かれ、新聞や雑誌に特集記事やインタビューが掲載された。なんとか日本の読者にも紹介できないものかと思っている。
参考
『十二の恋の物語―マリー・ド・フランスのレー (岩波文庫)』
『丸い地球のどこかの曲がり角で』は短篇集だが、このところ長篇ばかり訳してきたこともあって、翻訳にあたっては戸惑うことが多かった。
まず、物語の結末がはっきり書かれておらず、どう終わったと考えるか読者の判断にゆだねられていることが悩みの種だった。どうせなら盛り上げて終わらせたいと思ったり、もっとわかりやすくしたいという気持ちから、ついつい加筆してしまった部分を、推敲で削るのに、どれだけエネルギーを使ったことか。
また、この短篇集には、著者によく似た女性が主人公というエッセイ風の作品も多かったが、本のことしか考えていない主人公を優しく見守る夫という設定が、あまりにも著者の家族を思わせて、気恥ずかしかったのもある(私が恥ずかしがる必要はまったくないのだが-笑い-)。著者は、大学時代に未来の夫君に電撃的に出会ったことを何度も語っていて、それを知っていながら作品を引き締めるのはっこうたいへんだった。
だが、本が出て、みなさんの感想を読むと、色々心配したことが杞憂だったことがわかってほっとしている。
エッセイ風の作品の主人公に共感なさる読者も、いちばん訳しにくかった最後の作品を「おもしろい紀行記のように読める」と言ってくださる読者も、意外に多かった。
よけいな加筆を歯をくいしばって削除し、読者ができるだけ自由に解釈できるような訳にしようと心がけたことで、文芸翻訳に対する考え方も変わったように思う。
いままでは、翻訳を音楽になぞらえて、原作者は元になる譜面を書く作曲家のようなもの、翻訳家はそれを人前で演奏する奏者や歌手のようなものだと思っていた。つまり翻訳家はよく言われるような「黒子」などではなく、音楽や舞台の世界でのソリストのようなものと思っていたのだ。
だが、今回この短篇集を訳してみて思った。翻訳者は原作者と読者の間をつなぐ橋渡し役に過ぎないのではないか、そういう意味ではかぎりなく黒子に近いのではないか、と。
いやあ、文芸翻訳の世界はどこまで行っても極めることなどできないくらい、奥が深い。
左の画像は『丸い地球のどこかの曲がり角で』の帯付きの書影だ。
帯に掲載されたニューヨーク・タイムズの書評は「この難しい時代に生きる我々に元気を取り戻させてくれる本」と書き、ニューヨーカーは「最悪のことはまたたく間に身近に迫ってくる」と書いている。
いったいどっちなんだ、読むと元気が出るのか、それとも不安になるのか、はっきりしてほしい、と思われた方もいらっしゃるかもしれない。だが、この本の印象としてはどちらもそのとおりなのだ。
たしかに不穏な空気に満ちた本だが、現代を生きる私たちの不安に寄り添うという意味で元気を与えてくれる本でもある。むしろ、こうした相反する要素の集合体が本書なのではないかと思う。
作者自身が刊行当時、多くのメディアに語っている。「自分はフロリダにやってきて十数年になるが、この土地に対してはいまだに愛憎半ばする思いを持っている、この相反するふたつの感情のせめぎあいこそが、これらの作品群を生み出す原動力となった」のだと。※引用は『丸い地球のどこかの曲がり角で』訳者あとがきより。
ひとつひとつの作品の中でも相反する要素が拮抗していることが多い。たとえば「ハリケーンの目」はカラッと明るい幽霊譚だが、かなりせつない物語でもある。「イポール」の中では、主人公の(そして作者の)モーパッサンへの愛憎が拮抗している。
いくつもの相反する要素がぎゅっと詰まった物語の数々。読者のみなさんにはそれを楽しんでいただけたらと思う。
『丸い地球のどこかの曲がり角で』のカバー装画はヒグチユウコさん、装丁は名久井直子さんだ。
ヒグチさんの不穏な感じの絵は、本の中身にとてもよく合っているし、見方によっては、独特のユーモアさえ感じさせる。とくにあのワニが!
本を買ってくださった方にぜひやっていただきたいのが、カバーをはずして広げてみること。PC上の書影や本の前面を見ているだけではわからないが、紙いっぱいにワニの全身が描かれているのだ。長々と横たえられた尻尾のなんと豊かなこと。
本のカバーという超横長な紙の上ならではの表現だ。
ヒグチユウコさんの絵は、銀座に開店したばかりの〈グッチ 並木〉の壁面が話題になっている。動画(WWDJAPANのTwitterより)を見るとよくわかるが、ビルの壁という並はずれて縦長な平面に描かれた絵は圧巻だ。
それに比べると本のカバーは小さいが、この小さな紙の上にヒグチさんの世界が息づいていると思うとうれしい。
カバーの下の表紙もしゃれている。こんなおしゃれな装丁で世に出してもらい、つくづく幸福な本だと思う。広げたカバーと表紙を写真に撮ってみたが、小さな写真ではその迫力はなかなか伝わらないので、ぜひ現物を手に取ってみていただきたい。
先日はWeb本の雑誌で公開された『丸い地球のどこかの曲がり角で』についての記事をご紹介したが、今回は月刊の書評誌の方のお話。『本の雑誌』5月号に『丸い地球のどこかの曲がり角で』を取り上げた記事がふたつ載った。
ひとつめは〈新刊めったくたガイド〉という新刊案内に藤ふくろうさんが書いてくださった紹介。
「巨大ハリケーンをモチーフにした亡霊小説『ハリケーンの目』など、フロリダの土地に根差した作品がすばらしい。フロリダの見方が変わる、フロリダ・ゴシック小説」というまとめがついている。
ふくろうさんはその後、土地のサーガとして『丸い地球のどこかの曲がり角で』を紹介するブログを書いてくださいました。題して、『丸い地球のどこかの曲がり角で』ローレン・グロフ|フロリダ、ワニと亡霊が蠢く異形の土地 - 。
もうひとつは、英文学者、翻訳家、エッセイストである青山南さんの連載エッセイ〈南の話〉だ。通算279回目となる今回のエッセイの題は「ワイルドな子、ガミガミ女」。コロナ禍で旅行も楽しめない中、かつてアメリカ南部をまわったときに行かなかったフロリダをテーマにした映画と本を楽しんだ、という内容で、ワイルドな子というのはご覧になった映画の登場人物のこと。ガミガミ女は『丸い地球のどこかの曲がり角で』の冒頭の短篇にちなんだ言葉。この短篇集に出てくるひと筋縄ではいかない主人公たちのエネルギーが伝わってくる楽しいエッセーになっている。読み物としておもしろいので、興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。
個人的には、翻訳を仕事にしようと考えはじめたころに、青山南さんの『アメリカ短編小説興亡史』などの本を教科書代わりに、アメリカの短篇小説を片っ端から読んだ時期があったので、非常に感慨深い。
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『 丸い地球のどこかの曲がり角で』が「WEB本の雑誌」3月1日号 〈今週はこれを読め! ミステリ編〉で取り上げられた。
死と生が表裏一体の短篇集『丸い地球のどこかの曲がり角で』
「 今回紹介するのは、ジャンルに属する作品とは言えないが、ミステリー・ファンが読んだらとりこになることは間違いない一冊である。ローレン・グロフ『丸い地球のどこかの曲がり角で』(河出書房新社)だ。
書いてくださったのはミステリの書評で知られる杉江松恋さん。
Web上のさまざまなニュースサイトに転載されたので、すでにご覧になった方もいらっしゃるかもしれないが 、まだの方はどんな本なのかがとてもよくわかる書評なのでぜひ。
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