2009年5月29日 (金)

片岡まみこ版画展「黒猫のいるところ」

Photo  本の挿し絵でご活躍の、片岡まみこさんの個展を見てきた。題して「黒猫のいるところ」
 片岡さんはコルク人形も作っておられるようだが、今回は版画展。しかも、猫、猫、猫――見ていてやさしい気持ちになれる版画ばかりだ。
 とくに好きだったのは「黒猫がいない日」という作品。いくつもの大輪のお花のど真ん中に、白猫の顔が描かれていて、その顔の表情がなんとも微妙(に見えたのは、猫のことがよくわかってないせいか)。わたしはどちらかというと犬派で猫は謎の動物なのだが、こういう猫たちを見た後、出会った本物の猫が、なぜかいつもより表情豊かに見えた(笑)。
 そして、ギャラリー・マァルもすてきな画廊だった。恵比寿の駅からすぐなのだけれど、とても駅前とは思えない靜かな小路にある。しかも、大きなあじさいの陰にかくれるようにして。雨に濡れたあじさいのあいだをすりぬけて中に入ると、ちがう時間の流れる場所にまぎれこんだような気さえする。
 会期は31日(日)までと残り少ないが、お近くにお住まいの方、猫がお好きな方、いえ、そうでない方も、ぜひ行ってみてください。
 なお、片岡さんが挿し絵を担当された一番新しい本『ぼくのネコにはウサギのしっぽ 』は、会場で買うことができる。
 これは朽木祥作の、猫と犬をめぐる物語3作品をおさめたもの。朽木さんといえば、動物を書かせたらおもしろいことまちがいなしの作家なので、わたしは迷わずゲット(笑)。

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2009年5月28日 (木)

『メニメニハート』

メニメニハート』という不思議なタイトルと、なんとも可愛らしい表紙で、ん?と思った。特にタイトルが耳から離れてくれず、もう読むっきゃないということに(笑)。で、……おもしろかった! 令丈さん、勢いあるなあ、すごいなあ。
 どこがすごいって、まず語り手でもある主人公の男の子。この子は、部屋の整理整頓が趣味で、テレビの家屋改造番組は欠かさず見てるし、百円均一ショップに行って使えそうなグッズを買ってきては「収納」の工夫を楽しんでいる。だから、学校生活は「さーっと流して即(家に)帰りたい」。
 そんなコクニ君(ほんとはオグニ君なんだけど、ま、それはおいておいて)をあいだにはさんで、まったく性格のちがう二人の女の子が、ぶつかりあったり、なぜか歩み合ったり……おおいに笑わせ、そしてちょっぴり泣かせてくれる。それにつれてコクニ君は学校生活を流してばかりいるわけにもいかなくなり……。うーん、うまい。
 このコクニ君のおもしろいところは、こうした最先端の趣味をもつ反面、みんなに「昭和の男」と呼ばれるような、時代に一歩乗り遅れた天然キャラであること。
 令丈さんの作品には、いつも何かしら昔なつかしい登場人物や要素が埋め込まれていて、ほっとさせてくれると同時に、超現代的な世界を描いた作品に安定感と厚みが出ているような気がする。今回は、主人公自身にその要素があるというわけだ。
 自分が昭和生まれだからいうわけではないが、「昭和の男」。うーん、いいなあ。いや、ほんとに日本のYAはおもしろい。
 ところで池袋ジュンク堂で昨日まで「日本YA作家クラブ発足記念フェア」というのが行なわれていて、同クラブ世話人四氏によるお奨めのYAが並べてあった。令丈さんも世話人のお一人で、彼女が選んだお奨めの本の中に『エヴァが目ざめるとき 』というSFも。
 じつは『メニメニ……』はハートが入れ替わる話なのだが、この翻訳SFもそう。作品のタッチは全然ちがって、ちょっとこわいが、よく考えてみると、『メニメニ』もこわいといえばこわいかも。両方並べて読んでみたらなかなか興味深かった。みなさんもどうぞお試しを。

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2009年5月 2日 (土)

『花笠若衆』

 というわけで、さっそく見てきた。「東映・時代劇まつり」。(情報はこちらで→ http://t-joy.net/jidaigeki/
 いやあ、楽しかった!
 映画がはじまると、まず画面に「総天然色」という巨大な文字。そうか、この映画がつくられた1958年当時は「テクニカラー」だったんだ。バックに流れる音楽は、美空ひばりの「お祭りマンボ」~祭りだ祭りだ、わっしょい、わっしょい~。
 吉原の花魁道中がしずしずと進む中、いかにも悪役といった侍が言いがかりをつけて、町娘に乱暴をはたらこうとする。そこへ、若衆姿のひばりが登場。刀をふりまわす侍たちに対して、ひばりは傘を使っての立ち回り。どこぞの若様といった風情の若侍の助太刀もあって、みごと、悪い侍を追い払う。
 場面は変わって、ひばりの育ての親である江戸の侠客吉兵衛の家。吉兵衛を実の父と信ずるひばりは、日課である将棋の相手をする。その表情がなんともキュートだ。
 最後に、吉兵衛を殺されたひばりが、お姫様の姿で(ほんとうは双子のお姫様の片割れだったのだ!)、但馬のお城に乗り込む。お世継ぎ発表が行なわれている大広間に姿を現わすや、かんざしを投げ捨て、お姫様の衣裳を引き抜いたかと思うと、あでやかな若衆姿に。ちゃんちゃんばらばらのすえに、悪人たちをやっつける。
 お城に同道した若侍にひそかに思いを寄せていたひばりだったが、当の若侍はお城のお姫様である姉(ひばりの二役)の婚約者。ひばりは身を引いて江戸に帰って行く。
 秋が来て、神田祭りの山車の上で、ひばりが秋空をバックに祭りの太鼓を打ち鳴らすところで、映画は完。
 ああ、これぞ、エンターテインメント。めんどうなことは何もかも忘れて、見入ってしまった。かつて日本にも、映画がこんなふうにワクワクするものだった時代があったんだ。
 ちょっと寂しい客席が残念で、もっとたくさんの人に見てほしいと思った。テレビでもときどきやっているようだが、劇場での上映はスケール感がまるでちがう。こうなったら、次の作品も、ぜったい見にこなくては(笑)。

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2009年5月 1日 (金)

『月下花伝-時の橋を駆けて-』

 越水利江子作『月下花伝―時の橋を駆けて 』を読んだ。
 主人公の少女が祖父の家の倉庫で、古い時代劇映画のフィルムを見つけたことから、幕末に生きた新撰組の世界が現代に現出する。
 時代劇風の場面に圧倒的なリアリティがあり、沖田総司がなんともういういしくかっこいい。戦いのすえに若くして病死するこの剣士と、親代わりだった祖父を亡くした孤独な少女との出会いが、せつない。
 一方で、主人公が飛びこむ映画の世界の描写にはバイタリティがあふれ、主人公には雑草のような強さが感じられる。そんな主人公だからこそ、ぜったいにかなわぬ恋がよけいにせつないのかもしれない。
 この物語を読みながら、小さいころ、祖母に時代劇映画を見に連れていってもらったことを思い出した。こちらは帰りにデパートの食堂であんみつを食べさせてもらうのが楽しみで、映画の方は、細長いモノクロのスクリーンでちゃんちゃんばらばらやっていたという記憶が、あるような、ないような。
 はなはだ連れていきがいのないお供だったのだが、それでもこの時の映画はわたしの記憶の奥底に残っているらしく、仕事柄バタ臭いものばかり読んでいるいまでも、いったん時代物にハマリはじめると、しばらくはやめられなくなる。越水さんも、ほかに『花天新選組―君よいつの日か会おう』 といった作品を書いていて、ハマリそうな危ない予感(笑)。
 そう思っていたら、たまたま行った近所の映画館で、「東映・時代劇まつり」というのがはじまったことを知った。これから一年にわたって、東映の時代劇26作品を連続上映するというのだ。製作年は1954年から70年代まで。これはもう、見ないわけにいかない。
 でも、困った! 今年は、歌舞伎座が「さよなら公演」をやっていて、こちらも見たいものがいっぱいあるし……。楽しく悩みながら、まずは仕事にかかることにしよう。

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2009年4月30日 (木)

『レッドデータガール』

 荻原規子作『RDG レッドデータガール  はじめてのお使い (銀のさじ) 』を読んだ。
 熊野の山奥の神社に住む女の子のお話。冒頭、ゆれうごく思春期の女の子の心理と超常現象的なものが、うまく組み合わせられて……と、思っていたら、後半、ぐんぐんフカシギなお話の方へ。そのスピードたるやものすごく、すっかり寝そびれてしまった。
 わたしも、お稲荷さんに力をもらったと信じている外気功の施療師に治療してもらって、かなり効いたという体験をしたこともあるし、そうしたフカシギなできごとを受け入れる素地はもっていると思う。けれど、わたしがかかわるのは治療どまりで、怖くてそれ以上知ろうという気にはなれない。
 ところが、荻原さんは怖いなんて意気地のないことは言わず、さっさと踏みこんですごい物語世界を構成してしまう。いやはや、剛胆と言うか、なんというか……。そういうところが、作家になる人と普通の人間とのちがいなのだろう。
 5月末には第2巻が出るそうだ。作者のブログによると、思い切り学園もの、なのだとか。こんどは、どんな驚きを提供してくれるのだろう。楽しみだ。

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2009年4月12日 (日)

『風の靴』

 朽木祥 作『風の靴』を読んだ。(画像からBK1、文字列からAmazonの、購入サイトにリンク
 主人公は、いつも兄とくらべられ、そのプレッシャーに押しつぶされそうになっている少年、海生(かいせい)。彼は大好きなおじいちゃんが急死したのをきっかけに、家出を決行する。同行するのは、愛犬と親友という気心の知れた一匹と一人……だけのはずだったが、親友の幼い妹が兄たちの冒険を嗅ぎつけてあらわれ、強引に仲間に加わる。そして、もう一人、波間を漂流していた謎の男性も。四人と一匹は、おじいちゃんのヨットが係留してある風色湾をめざし、さらにおじいちゃんが宝箱を埋めたという秘密の入江へ――。
 海生は、思いがけなく出会ったおじいちゃんの言葉と、仲間の存在に支えられて、自分の行くべき道を発見するのだが、読み終わったいま、深く心に残っているのは、この作品に描かれている海のすばらしさだ。朝焼けに照らされた湾の静けさ。秘密の入江でのキャンプファイアーで、みんなが入っていってワンワン・ざぶざぶと駆けまわる浅瀬の水のきらめき。海生はほんとうは、こうした海と対話することで、自分を見いだしたのかもしれない。
 海というと、海水浴のビーチしか思い浮かばないわたしだが、ヨットに乗る人の陸地でのそれとはちがう視線と、彼らが体験するであろう「時間」の流れを、うらやましく思った。
 ちなみに、作品の冒頭から海生の思いの中で、影のように重圧を与えつづける兄が、最後に登場して、海生にはうれしい告白をする。
 画面トップの書影はリンクのためにのウェブ書店のものを使ったが、表紙の美しさを十分に伝えられないのが残念。ぜひ、書店で実物を手にとって見てほしい。ついでに、そっと表紙のカバーをめくってみると――なんとも贅沢な装丁があらわれる。これは、かなりうらやましかった(笑)。
 朽木祥さんといえば、『かはたれ』『たそかれ』『彼岸花はきつねのかんざし』といったファンタジーで知られるが、これはリアリズムの長編第一作。この作品には、主人公以外にもさまざまな物語をもった人物が登場するので、今後彼らの物語がくわしく読める日がくるのかもしれない。期待して待ちたいと思う。

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2009年3月30日 (月)

『ベルおばさんが消えた朝』店頭に

Belletokuma  昨年から訳していた『ベルおばさんが消えた朝(徳間書店)』が刊行され、店頭に並んだ。
 物語の舞台は、アメリカのアパラチア山中にある小さな町。心に傷を負ったふたりの子どもが、この町で隣あって暮らしはじめ、おたがいの存在があることで変わり、成長していく。この部分をどう読むかは、読者によって、またその人がどんな人生経験をしてきたかによって、かなりちがってくるのではないかと思う。
 わたし自身は、自分の体験に重なるところがあったせいか、翻訳に持てる力をすべて出し尽くした感じだった。情けないことに、訳者あとがきを書くときには、完全なガス欠状態(笑)。
 そんなふがいない訳者を勇気づけるかのように、日ごろたくさんの児童書を読んでおられる方たちが、すばらしいレビューを書いてくださった。
 1day1bookおいしい本箱えるふ通信 で読むことができる。
 それぞれちがった切り口で書かれており、合わせて読むと、この本の持つさまざまな顔が全部見えてくる。ぜひ、読んでみていただきたい。そんなことができるものなら、本の訳者あとがきから「リンク」を貼って、これらのサイトにジャンプできるようにしたいくらいだ(笑)。
 レビューを読ませていただきながら、つくづく感じた。本というのは、作者や翻訳者が生みだして、それで終わりではなく、世の中に出てからは、読んでくださる方たちに育てられるのだ、と。レビューを書いてくださった方たちに、そして、これから読んでくださる読者のみなさんに、感謝!

ベルおばさんが消えた朝 』をAmazon.co.jpで買う( 左のタイトルをクリックしてください)。BK1で買う
 ホームページでも紹介しています。よかったら、見てみてください。

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2009年1月26日 (月)

『子どもの本とは何か』

 知人が『子どもの本とは何か』という本があるのを教えてくれた。
 アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記 』の翻訳で知られる清水眞砂子さんが、かわさき市民アカデミーで行なった講義とインタビューをまとめたもので、本というより、パンフレットに近いものだが、ウェブ書店などで買うこともできる。
 その中で、翻訳という作業について、清水さんがおもしろいことをいっていらっしゃるので、紹介しておきたい。
 清水さんがある声楽家に、歌曲を歌うとき、どう歌いこなすのか、どうやってコンサートまでもっていくのかをたずねたところ、声楽家は、まず歌われている内容をこまかいところまで思い描く努力を重ねる、と答えたという。いろいろとやってみているうちに、心の中に描き出された情景のピントがぴたっと合うときがきて、そこではじめて、ちゃんと歌えるようになる、と。
 この過程が翻訳とそっくりだと感じた清水さんが、そういうと、声楽家はこともなげに「そりゃあなた、両方とも再生芸術ですもの」といったというのだ。
 そう、翻訳は歌と同じように「再生芸術」だ。翻訳する作品には当然、原書があるが、日本の一般の読者の目にふれることはほとんどない。それをいかにして読者にわかる形で表に出すか、それが翻訳という仕事なのだ。
 私自身は以前、舞踊の関係の仕事をしていたこともあって、原作者は振り付け師で、翻訳家は踊り手のようなものだと考えている。振り付け師(原作者)の方がずっと創造性の高い仕事をしていることは、もちろんだ。でも、実際に観客(読者)に見えるのは、踊り手(翻訳家)が舞台で踊ってみせる、その動きだけなのだ。
 じつは私も勉強中は、翻訳というものを裏方的な仕事だと思っていた。ところが、仕事をはじめるやいなや、そうではないと気づいて愕然とした。原作者を陰で支える仕事に徹するつもりだったのに、蓋をあけてみたら、なんとも恐ろしいことに、自分が一番人目にさらされる場所に立っていたというわけだ。
 いまでも、恐ろしいということに変わりはないが、舞台に立つからには、観客の心に届く舞いを舞いつづけたいと考えている。今回、舞踊家だけでなく、歌手をはじめとする「再生芸術」の芸術家たちがみな、同じような営みをしていると知り、たいへん心強く感じた。なにしろ、私たちは舞台の上に立ったら、それぞれ一人ぼっち、なのだから。

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2009年1月24日 (土)

Air and Simple Gifts -「簡素な贈り物」ふたたび-

 以前、私が翻訳した『最後の宝 』という本の中に、「簡素な贈り物」という歌が出てきた。原題は"Simple Gifts"。
 この曲がいま、ちょっとした脚光を浴びている。アメリカのオバマ新大統領の就任式で、"Air and Simple Gifts"という四重奏曲に編曲されて演奏されたのだ。
 下の動画で実際に聞いていただけばわかるが、曲の後半が"Simple Gifts"のメロディー。前半はまずイツァーク・パールマンがバイオリンでメローディーを奏で、やがてヨーヨー・マのチェロが加わり(なんという豪華な演奏者陣!)、アンソニー・マギルのクラリネット・ソロになったところで、いよいよここからが"Simple Gifts"。ガブリエラ・モンテロのピアノも本格的に入って四重奏に、という構成だ。



  「簡素な贈り物」は以前にも書いたように(当時の6回の記事はこちら、元々はキリスト教シェイカー派の讃美歌だったものが、さまざまな形で演奏され、歌われるようになったもの。広く知られるようになったきっかけとして、マーサ・グラハムが振り付けたモダン・ダンス「アパラチアの春」の音楽に使われたこともあげられる。
 じつは私はいま、アパラチア山中の小さな町を舞台にした物語を翻訳していて、この地域はとても気になる。
 ここはきびしい地形的条件のために、ずっとほかの地域から孤立してきた。石炭産業が盛んだったころは、一大炭田地帯として国の発展を支えたが、炭坑で働く人たちは山陰や谷間に粗末な小屋を建ててそこで暮らした。「ホーラー(窪地や谷間をさすこの地方の方言)」は、貧困の象徴だったという。
 こうしたことや、歌詞を考えると、この曲が連想させるものは、けっして明るく楽しいものばかりではない。むしろ、真の幸福にたどりつくには、きびしい生活や困難を乗り越えなければ、と示唆しているようにも思える。今回の大統領就任式に選ばれたのは、そうした連想からだろうか。
 とはいえ、これだけ広く演奏されてきたということは、アメリカ人の心の奥底にある何かにふれる音楽なのだろう。日本人である私が聞いても、どこかなつかしい気がするのは不思議だ。

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2008年11月 8日 (土)

新刊『われらがアウルズ』店頭に

Owlsmiddle_2  新しい翻訳作品『われらがアウルズ 』が出版された。
※上の文字列からAmazon.co.jpの購入ぺージに、こちらからBK1の購入ページにリンクしています。
 スペンサー・シリーズなどで知られるロバート・B・パーカーが、はじめてYA(ヤングアダルト)向けに書いた小説で、舞台は作者自身が少年時代をすごした1940年代のマサチューセッツ州。
 主人公のボビー(=ロバート)は探偵小説とバスケットボールに熱中する14歳。彼がバスケット仲間や幼なじみのジョウニーとともに、事件の解決に挑戦するというミステリじたての物語だ。
 スポーツ好きのパーカーだけあって、タイトルにもなっているバスケットのチーム「アウルズ」の試合の描写にスピード感があふれている。私はバスケットは学生時代に体育で習ったのとNBAのTV中継を観るくらいだが、それでも毎日訳しながら彼らといっしょにコートを疾走した気がした(笑)。
 いっぽう、物語のあいまに挿入されている「思い出の記」には、作者が子供のころ好きだったラジオ番組やスポーツ、さらには映画の話などが書かれていて、これを読んでからパーカーのほかの小説を読み直すと、なるほどと合点がいく箇所が多い。
 アメリカでは、同じようにノスタルジックな雰囲気のYA作品が相前後していくつか発表された。私はたまたま何冊か読み比べる機会があったのだが、同じ古い時代の話でもなぜかこの作品の世界が一番リアルに迫ってきた。
 いま続々と発表されているパーカーの作品も、この作品に描かれた時代、描かれた世界に、ちゃんとつながっている気がする。
 もしかしたらパーカーという作家が、70歳という年齢になり、35年という作家生活を重ねたいまでも、生き生きと「少年時代」を生きているということなのかもしれない。そんな瑞々しさを感じさせる一冊だった。
 パーカー・ファンにはもちろん、YA小説の読者にも、だまされたと思って(笑)読んでみていただけるとうれしい。 

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